38歳からのPC自作のきっかけ
わたしがパソコンの自作を始めたのは、今から8年前の38歳の頃である。
当時はまだパソコンも高価で、アメリカでは「5万円」のパソコンがあると話題になっていた頃だ。
OSもMSDOSからWINDOWS95搭載へと変わり、OSの操作が簡単になった頃でもある。
当時は、自宅を新築したばかりで、金が無い。でも、自宅のスペースはアパート暮らしよりは広くなった。
>自宅にパソコンが欲しい・・・と思い始めた動機は、まずゲームの誘惑。
WINDOWS95はいろいろなゲームができるらしい。
でも、ローンを背負い込んでお金は無い。
当時市販されていたパソコンは30万円以上していた。
そんな時、会社でさぼりながらやっていたパソコン通信で、パソコンオタクの人と仲良くなった。
その人は自作のパソコンを持っているという。
DOS/V機だ。わたしもDOS/V機の名前は知っていた。
当時の日本のパソコン業界は、NECのPC98一色だったのだが、
漢字処理をハード依存でなく、DOS/VのOSレベルでやれるようになって、
海外メーカーのパソコンが入ってきた。
コンパックが安いということで、話題になったが、当時は秋葉原でもそんなに扱っていなかった。
そのDOS/V機を自作している人がいる。
お金が無いので自作でやっているという。その頃は自作の方が安かった。
(今は激安パソコンと較べると価格差は少ない。下手すると高くつくこともある。)
どうやっているのか聞いてみた。
その人は山形に住んでいて、秋葉原へ夜行列車でやってくるという。
秋葉原で、わたしが行っていたのは、ラオックスや九十九、石丸電気などだったが、
その人は違う。
ガラパゴス、TWOTOP、DOSVパラダイス、ブレス・・・聞いたこともない店の名前が続く・・・。
夜行でやってきては、部品を買い集め、日帰りで帰るという。
そうか、部品を少しずつ増やすことで買えるんだな。であれば、一度に金が出て行くことは無いのか。
住宅ローンを背負い込んで、これ以上、ローンを組むのは嫌だった。
怪しいショップ
わたしも秋葉原の表通りにある大きなショップでなく、裏通りの小さなパソコン部品ショップへ行ってみることにした。
当時秋葉原には知る人ぞ知るあの宗教団体オ○ムの店があった。
パーツショップはビルの2階より上にあるものが多くて、もともとちょっと入りにくい感じだ。
自作初心者は皆、最初は躊躇する。
チラシを大声で配っている部品ショップがあった。
今考えると、オ○ムである。
ここはまずいと、山形の人も言っていたが、気が付かなかったのだ。
赤いチラシに書かれたマルチメディアパソコンという構成と価格の安さに惹かれ、
急な階段を昇った3階の店の中へ入っていった。
確かにタワー型パソコンのデモをやっていて、他のショップと変わらないが、
何か異様な音楽が流れている。マルチメディアパソコンではない。
そこでパソコンを見ていると、白くて長い上着を着た女性がすうっと(本当にすうっとという感じである)横にやってきた。
「いかがですか?とてもお安くなっています。マルチメディアのグラフィックボードは4MBで、3Dゲームが・・・」
と私の顔を見ずに商品の説明を始めた。
「いや、ちょっと見ているだけですから・・・」
と、説明を遠慮しても、こちらの声を無視して説明が続く。
わたしは気味が悪くなった。
知らない振りをして無視していたら、説明を一通り終えて満足した女性は、
またすうっとその場から消え、他のお客のところへ移った。
わたしに説明をしている間、一度も目をこちらに合わせないのだ。
これもパソコン通信で知り合った山梨の人から聞いた本当の話だが、
やはりチラシに惹かれて、そのオ○ムの店に行ったらしいのだ。
そこで、いろいろ話をして、
「どこで作ってるんですか?」と聞くと
店員は「上九一色村です。」と言った。サティアンである。
「えっ、そう。わたし実は山梨なんですよ。車で取りにいけますか?」
とマジで聞いたらしい。
(続く・・・)
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